赤と青のえんぴつ

分野にこだわらず、気になったことについて机上の空論を繰り広げたい。

「趣味」という名の「他人から認められる何か」が欲しいゾンビ

   趣味ほしいなーと彷徨う趣味ゾンビって増えていると思う。インターネットの普及に伴い、ネットサーフィンがあまりにも楽しくなってしまった。受動的でもいくらでもコンテンツが消費できるのは魅力だが、その結果、能動的に何かをする機能が退縮してしまった人も多い。

 

   しかし、ネットサーフィンで波を作るのは能動的に何をする人々である。その人たちとの隔たりや劣等感を感じた瞬間、人は趣味ゾンビと化す。

 

   単純に趣味が欲しい人には、「○○とかどう?」とか実際に具体的な案を出すのが最適だと思うのだが、多分趣味ゾンビはそうアドバイスしてもあーだこーだ言って手を出すことはない。でも、趣味が欲しいと呻きつづける。

 

   こんなゾンビもいるのではないだろうか。流行りのことに食いつきはするもイマイチ馴染めずすぐに次の流行りに移る人。ミーハーは期間は短けれど多少馴染むか馴染みに行くことができるが、趣味ゾンビはそうではなく、Twitterのアカウント名を変えたり、○○したいなーって呟くぐらいで特に人との交流もできるわけでもなくしれっと次のコンテンツに移る人。これも結局安定した趣味がなく彷徨いつづける趣味ゾンビの一種だろう。

 

 

   趣味ゾンビはこうした彷徨を続けるのはどこに問題があるからなのだろうか。もちろんこの彷徨を散歩だと捉えて、それ自体を趣味だと本心から思える人にはまったく問題ないが。

 

   ネットサーフィンで大きい波を作っている人は趣味の中でも第一線にいる人たち、もしくは、それを仕事にできるほどすごい人たちなのである。ネットサーフィンをずっとしていればそうした人ばかりを見ることになり、目だけが肥えて、無意識のうちに趣味というハードルを大きく上げてしまう。ただハードルを上げるだけならまだいいだろう。

   ここで趣味という本質を変えてしまうと身体を腐らせる。大きい波を作っている人たちはたくさんの人がその人の実力を認めている。それを眺めているうちに、最初はその人たちに感心し、羨望していたものが、劣等感を抱きはじめる人もいる。こうなるとその人は趣味ではなく、他の人に認められることを求め始める。これが趣味ゾンビの始まりだ。要は趣味という自分の世界を決定づける因子を他者に任せすぎると、趣味世界を構築できずに迷走を始める。

 

   「じゃあ、他人に認められるようなことやればいいじゃん。」という指摘もごもっとも、である。しかし、趣味ゾンビは目は肥えている。実際に何かやろうとしても、ネットサーフィンで見たことと自分でやった実際とがあまりに乖離しすぎて絶望する。

   ネットサーフィンで大きい波を作っている人たちも最初は上手くいかなかっただろうが、とてつもない努力してその困難を乗り越えて大成しているはずだ。しかし、ネットサーフィンしている中ではその努力を直接、観測することはできない。そして、その困難を自分から乗り越えるような能動的な機能は退縮してしまっている。

 

   趣味ゾンビをなんとかするとしたら、何かを始める時に自己嫌悪に陥りやめてしまう前にコミュニティを確保することだろうか。さすがにその趣味で人を惹きつけるまでにはとてつもない時間がかかり、心が折れてしまうだろうから、趣味を一緒にやる人を確保すれば長続きするだろうし、お互いがお互いの趣味世界構築に協力的になれるだろう。

 

   一番は自己完結できる趣味を見つけることだと思うけど…

   

 

   ここまでさも一般論かのように突然語ったが、自分も趣味ゾンビだと思っている。自分の問題をここで構造を分析しないとずっとこのままな気がしたのでこの文章を書いた次第である。多分、おそらく当てはまる人がいるのではないか、と思いたい。そうした人がいて、あぁ〜ってなってくれたら幸いだ。